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最高裁判所第一小法廷 平成4年(あ)1101号 決定 1993年2月18日

本籍

東京都板橋区大山町二五番地

住居

同所二五番八号

会社役員

野口英吉

大正一四年八月七日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成四年一〇月一四日東京高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申し立てがあったので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人堀口嘉平太の上告趣意は、量刑不当の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 味村治 裁判官 大堀誠一 裁判官 橋元四郎平 裁判官 小野幹雄 裁判官 三好達)

平成四年(あ)第一一〇一号

○ 上告趣意書

被告人 野口英吉

右の者に対する所得税法違反被告事件の上告の趣意は、左のとおりであります。

平成五年一月二九日

弁護人 堀口嘉平太

最高裁判所第一小法廷 御中

原判決の刑の量定は、甚だしく不当であって、これを破棄しなければ著しく正義に反する事由がある。

被告人は、第一審及び原審において実刑判決の言渡を受けた。被告人の犯罪が、全く庶民の株投資に基づくものであり、仕手戦に参加したわけでもなく、又暴力団と結びついたり、或は他人から金を借りまくって倒産させたわけでもなく、又回数制限についても、捜査官に指摘されるまで法に反することの認識もなかったこと。一方、本件にかかわる税金も一切支払い、更に被告人、家族としても血の滲む金銭をもって精一杯の贖罪寄付をし、反省していること。喉頭部の腫瘍摘出手術を受けていること等を勘案するとき、脱税犯については、一般予防的効果の必要なことを十分斟酌してみても、実刑を科することにどうしても納得できず、その量刑が重過ぎて、刑事司法全般及び常識的な庶民的刑事感覚からするとき、そのバランスを欠き、正義に反すると考えるので、被告人に与えられた上告の機会に今一度御勘案戴きたいと思い上告に及んだ次第である。以下原審に述べたところを更に敷衍しながら述べることとする。

一、本件は行政犯的性格を有する犯罪である。

一般大衆の株式の売買そのものは現代では資本と経営の分離により、経営の参加というよりは、利益追求の投機的手段と化している。そしてこのこと自体は社会自体の容認しているところである。そして本件株式売買による利益の背景には、証券業界の異常な構造的バブル経済の動きがあったことに特色があり、それだけに一般大衆投資家も異常な利益を収めることとなったものである。しかも本件所得税法違反の要点は家族又は友人名義(各名義人毎には回数制限の問題を生じない)を本人名義として計算することによる株式売買の回数制限にあったものである(しかも本件の主要な利益をあげた野村証券の株式については、殆ど被告人名義の取引によるものである)。この点本件事件は正しく行政犯としての性格(刑事罰としては損害賠償的色彩が強くなる)を強く持つものである。今日脱税犯については、一般人の納税意欲(納税倫理)を失わしめる反社会的性格を有するところから、自然犯と異なるところはないとする見解(刑罰として一般刑事犯と異ならず、懲役刑、実刑の色彩が強くなる)が有力である。しかしこの見解の下においても、本件回数制限による違反は行政犯的性格を強く有するものである。蓋し回数の基準をいくらにするかは難しい問題であるが、立法的には行政目的に従って定められるものであることによる。株式の譲渡所得は、昭和二八年原則非課税とされ、昭和三六年、年五〇回以上かつ二〇万株以上の継続的取引につき課税され、昭和六二年、年三〇回以上一二万株となり、昭和六三年右回数制限は廃止され、原則課税とされたことからも明白である。

二、従前の納税の状況

被告人は長年有限会社野口商店の取締役社長として営業活動をしてきたものであるが、会社としても納税の義務を果し、個人としても本件以外にも納税の義務を果してきたものである。ここにも自然犯的な反社会的性格を見い出すことはできない。同種前科も全くない。

三、逋脱の意思について

1、現在脱税犯については、一般国民の納税意欲を減退するものであるとして、一般予防を重視するあまり、主観的要素としての行為者の逋脱の認識を軽視し、一方収税官吏たる査察官においては、供述拒否権を告知することもないところから、行政違反的な取り調べとなり、嫌疑者は、税金の調査のようなつもりで安易にお金を支払えば足りる思いで処理しようと考え、これが告発となり取調状況は事実上検察官の取り調べに引き継がれ、そこでは争い過ぎると裁判上不利となり、時間がかかり訴訟経済にも反し、却って不利となる、との雰囲気があることは、つとに指摘されてきているところである(堀田力「逋脱犯における主観的要素」租税九号一〇四頁)。

しかし脱脱犯における逋脱の意思は重要な主観的要素をなすものであり、未必の故意では足りず、積極的な意思の存在が必要とされている(最判昭和四八・三・二〇刑集二七巻二号一三八頁)、他方主観的意思については単なる内心の意思においては、いかようにもとれ、多義的解釈の余地があって決め手を欠くこととなるから、罪刑法定主義の見地から客観的外形的事実を基本として明らかにされなければならない。

2、株式取引は、商法上の絶対的商行為であり、又そのための資金調達ひいては借り入れは商行為とみられるものである。所得税法は、第一二条で実質的所得者課税の原則の見出しを掲げ「資産又は事業から生ずる収益の法律上帰属するとみられる者が単なる名義人であって、その収益を享受せず、その者以外の者がその収益を享受する場合には、その収益はこれを享受する者に帰属するものとしてこの法律を適用する」とし、最判昭和三三・七・二九税務訴訟資料二六号七五九頁は、所得帰属判定の基準は「何人の所得に帰するかは、何人の収支計算の下に行われたかの問題である」と判示する。この基準を考えるに当たり、経済的実質を重視するのあまり、関係者間の私法上の法律関係を離れ、経済上の実質に重点を置くことは、課税基準としての明確性に欠け課税に混乱と不公平をもたらすことになる。私法的には家族名義、友人名義のものを第三者から差押をしようとしても、簡単に認められないこと(鈴木竹雄編普通預金定期預金銀行取引セミナー2有斐閣ジュリスト選書一七頁、一八頁)、租税債権の場合と一般債権の場合とで考え方に相違のあること(前掲一八頁以下)したがって常識論と税務上の考え方に差が出て来ること。家族名義、友人名義にしておいた預金、株式、持分等について一旦家族、友人が同人のものだと主張することになった場合、贈与等の問題も絡んで非常に深刻な問題となること(前掲二一頁、二二頁)、訴訟となけば長期化する。

3、逋脱の意思は、所得の帰属の認識を離れて論ずるわけにはいかない。逋脱の意思は、株式の譲渡所得が本人に帰属することの認識を前提とするリクルート事件で高級官僚に借り入れさせ、その金員による株式売買の結果生ずる譲渡所得は、右官僚の帰属となる。その借入は、右官僚個人がやろうと代理でやろうと署名の代行でやろうと同じことである。借入金で株式取引をやっている人も多い。

4、被告人は回数制限のあることは、よく知っていた。従って家族名義、友人名義の一つ一つをとると回数制限にはひっかかっていない。そのためか本件の資料における回数制限の記載は家族名義、友人名義をすべて被告人の名義のものとして回数制限違反の表を作っている(甲一、13頁)。

被告人は家族名義にしても友人名義にしてもその所得が被告人に帰属するとは全く考えていなかった。家族名義のものは被告人が保証人であるにしても、借入しているのは明らかに家族の個々人であり、その株式譲渡所得は各家族に帰属し、友人もすべてお金を出し合っているものであって、友人のお金を出した割合に相当する株式の譲渡所得は、各友人に帰属すると考えていたからである。従って通帳等の金銭の出入りについては、すべて明白であって、名義毎に株式の購入、売買代金が、ハッキリしていた(従って本件証拠として通帳等は出されていない)。甲名義で借入した金員で購入した株式の売却代金は、それが現金の場合も小切手の場合も甲の口座に入ってきていた。被告人が回数制限を誤魔化すつもりであるなら、被告人の株式売却代金を架空の口座に入れたり、購入代金を架空の口座から出す必要があったろうが、そのようなことは全くしていない。被告人は一〇年位前に遺言書を作成したりして、遺産の配分のことを考えているものであるが、本件においても妻と男の子である長男英一、次男英治が借入し、中村は、建物のローンの支払いに苦慮しているので、これを支払うべく借入し、更に唐沢名義の株式については、気の合った人々が金を出し合ってそれぞれの金を出した割合によって利益が帰属することにしたものである。しかし実際には友人名義については、むしろマイナスとなり、家族名義のものも借入金の返済をやったが、利益はあまり上がらず終わってしまった。

5、被告人は本件取り調べのあった当初は、回数制限になるとは全く思っていなかった。又何があっても精々罰金五〇〇万円位払えば終わると、証券会社の人から言われていたこともあって、気軽な気持ちで取り調べに応じていた。家族も勿論実刑になり大事件になるとは、夢にも思っていなかった(こうした考え方が良いか悪いかはひとまず別として)。被告人が当初、逋脱の意思があったと認識させられたのは、家族名義の借入に際して被告人の筆跡であるから被告人の借入であると言われ、むやみにこれを否定すると心証が悪くなるということにあった。法律に疎い被告人はそのことによって家族名義の借入は同人の借入であり、次いで友人名義の株式取引についても家族のことが誘い水となって被告人の取引となってしまったのである。家族名義にしてもすべては家族の口座で入出金となっており、外形外、そして私法上も家族名義の借入であり、株式の譲渡所得の帰属も家族のものである。友人名義においても然りである。この外観が崩れるにはよほどの事情がない限り無理というものである。然るに借入名義が被告人の筆跡によるというから、被告人の取引と決め付けられ、署名の代行或は家族の財産について常に包括的に被告人に一任していること等弁明も思い付かず、又その機会もないまま(民事上もこの法律行為の解釈にはまことに多様性がある。内心の意思のみなら如何ようにでもとれる。親が幼児の将来のために金銭を贈与し、その金員で株式を購入したとき、親の取引となるか、幼児の取引となるか、よく争われることを考えてもその解釈の多義的であることを痛感させられる)すべては逋脱の意思により家族名義、友人名義でやったということとなり、又株式の取引による利益の大半は、被告人個人の同人名義による取引によって行われたものであるが、さほど利益のなかった家族名義、友人名義が被告人名義と同一視された結果、回数制限違反となり、その逋脱率もバブル景気に便乗したために大変大きいものとなったのである。

そしてすべての行為はこの逋脱の意思を前提-ということは計画的に行ったこととなり、悪質ということとなり、この判示文章を読むと被告人としては、どうしても慚愧であり又被告人の気持とどうしてもピッタリ合わないのである。被告人の気持がそのまま認定され、それを前提として科刑されるのならいざ知らず、認定された事実が被告人の気持ちと合致せず、しかも自覚としては逋脱の意思が全くなかつたものが、署名の代行により、それは被告人の借入と教えられ、その結果逋脱の意思があったこととされ、ために当初から逋脱の意思を持ち計画的、悪質な犯行とされていることが被告人には耐えられないのである。最近耳にする暴力団と一緒になったり或は会社等から金を借りまくって会社を倒産させたり、或は仕手戦に参加したりするというようなことは全くなく、庶民の単純な株式売買なのである。上告審においては特にこの点の情状を今一度御斟酌願いたいのである。一旦自白した被告人としては、今更逋脱の意思について云々するつもりはないが、どうしても実際の心情と逋脱の意思を認定された課程を明白に認識して戴きたいのである(一旦自白した関係でその経過を述べる機会を逸してしまったのである)。

一方、家族、友人らも被告人が取調官に決め付けられた逋脱の意思が前提となり、これに沿う供述をすることとなった。金融機関も然り、証券会社も然りである。取調官から決め付けられるとき、一般の人には、これが誘い水となり、それに沿う供述をするようになる。しかもデリケートな問題であればあるほどそうなる。証券会社社員の供述に回数制限のことは、ハッキリ言っていたと言っている反面、家族名義のものは被告人の取引と思ったというが、何故ハッキリそれを被告人に言わなかったのか、或いは、せいか信用組合にしても野口登女名義が実質は被告人の取引であるなら、何故そのように注意しなかったのか。現在金融機関は他人名義を使わせないよう指導している筈である。しかし逆に言えばそれほどに他人名義か本人名義かは難しいデリケートな面であり、一度被告人が、他人名義のものでも実は本人名義であったと言えば、それに流される供述となることを物語っている。この辺の事情もよく汲み取って今一度御斟酌願いたいのである。

四、逋脱の動機、手段、方法

1、昭和六〇年中のクラレの株式などの五〇〇〇万円以上の大損をした穴埋めをしようと賢明になっていたところ、株式の構造的高騰に便乗したこと。

2、家族名義を使ったこと。家族名義の問題については、家族一体といった従来の家族主義的な考えの存在すること。従って家族は家長たる被告人に財産運用を包括的に一任していたものと見られること。従って家族名義で株式売買をやっていても任せきりになつていたこと。被告人は父親の死亡が原因で尋常高等小学校中退後、家業である八百屋に専念してきたものであることから、法律的には疎いと認められること。したがって法律的に深く掘り下げて考えるということは難しく、常識的に判断するようになること。本件では家族も被告人が名前を使っていることを知っていたこと、素人的には家族の名前で借入金をおこせば当初から家族の資産となると考えること自体無理からぬ点もあること。そしてこのことは家族の資産を増やすことにつながると考えるに至ること、だからこそいわゆる架空名義を使ったりしては一切していないこと、又、このことは中村健二名義のものは同人の建物の返済金の一部に充当されていること(第四回被告人一五丁裏)、家族名義にしても利益を隠す意思のなかったこと(第四回被告人一五丁裏)。又家族もそのような気持ちを裏付ける供述をしている(中村ます江五五四丁裏、野口英一、第三回一一丁裏)。証券会社にしても回数制限の基本原則は話しても、具体的に家族名義の実情に対しては、被告人の関与の仕方から予測できたと思われるのに、問い直すことはしていないこと(そのことによって取引をやめられると営業成績を落とし、墓穴を掘ることとなろう。尚、一般に証券業界では、証券会社自身さえも専らその売買による手数料稼ぎのみに狂奔し、顧客に回転商いを、頻繁に勧める等し、従って顧客はもとより証券会社の従業員であっても、個人の売買に対する課税の問題について、その認識が希薄であることは、否めない事実であると指摘されている。)。借入金が真実家族の資産であれば問題ないのであるから、微妙な問題のあること(被告人自身、家族名義で借り出して株式の取引をやることが回数制限にひっかかり、刑事罰の対象となることを言われていれば実直な被告人として思い止まったことは疑を差し挟む余地はない)。せいか信用組合にしても、野口登女名義の融資につき、「実質は野口英吉さんに対する融資であると理解しております」(記録五七八丁裏)と述べているが(これは被告人が脱税になる気持ちもないところから、ありままを述べていることに起因する)、仮に保証人である被告人から取立不能の事態が生ずれば、私法上当然野口登女に対し、請求、執行してくることは間違いないとみてよいのではないか(金融機関も被告人に対する融資であるなら正直に被告人に対する融資とすればよいのである。ここに素人の判断を惑わす原因がある)。こうしてみると法律専門的結論から一口で言えば脱税手段のため家族名義を使ったということになるであろうが、その動機においては、しかも行政犯的動機においては同情すべき点が多々ある。

3、友人の名義で行ったこと

この点も親しい友人たちで金を出し合って、旅行の資金にしたりしているのであって、いわゆる架空名義を使って自己の利益を取得したのと、事情は全く異る。その利得は出金額に応じて各友人に帰属している。むしろ常識的には脱税の手段としてという感覚がピッタリあてはまらないと考えて良いと思われる事案であり、その動機においては同情すべき点がある。その他については前号の家族名義で述べたところを援用する。

五、罪証湮滅の事実なし

1、既に述べたようにもともと常識的には家族名義或は友人名義そのものとすることに、明確な違反の意識がなかったものであるから、いわゆる預かり知らぬ第三者の名義を使ったり架空名義を使ったりするような或は関係書類を廃棄するような罪証湮滅の跡は全くない。専門家からすれば知らぬ仏というところである。

2、一点中村健二関係の書類を同人のところへ持っていった経緯があるが、これとて調査があれば同人名義のものは同人のものであるから同人のところになければならないという、いとも単純な動機に基づくものである。同人名義による取引を湮滅したりする気持ちは全くなかったものである。

3、被告人、家族名義の各預金通帳等の入出金は、すべて明々白々である。一つの口座に関係ある金を他の口座に入金したような事実も全くない。だからこそ預金通帳等は、本件では証拠としては全く出ていない。

六、税額、逋脱率

バブル経済による株式の構造的高等により、問題になった脱税額は数十億にのぼるものがあり、それに比すれば本件は少額であると言えるが、一般市民からすれば決して少ない額ではない。そうして逋脱率も決して少ないものではない。しかしこのような結論になった最大の原因は、被告人が回数制限についての考え方が甘かったことに起因する。この点において一般取引において売上をいくら誤魔化したかという問題と次元を異にする。回数制限に対する考え方それ自体がオール・オア・ナッシングの結果を招くに至ったのである。即ち家族名義の借入金が家族の資産となれば各家族名義、友人名義のそれぞれの取引は、回数制限にかからないのである。被告人はこの意味では回数制限を厳しくチェックしていたのであり、これを事足りると考えていたのである。ところが家族名義の株式取引はすべて被告人のものと決め付けられたので、回数制限にかかることとなったものである。しかも最も利益をあげた野村証券の株式については、既に述べたように被告人名義による取引によるものが殆どである。そして被告人が考えていたと同じように家族名義、友人名義の株式取引が被告人の株式取引と別異のものであれば、この大きな利益は課税の対象とならなかったものである。家族名義、友人名義の株式取引が被告人の株式取引である決め付けられたことによって一挙に課税の対象となり、逋脱率が多くなったのである。しかも家族名義、友人名義の株式取引では殆ど利益が出ていない。右事情を十分に御斟酌願いたい。

七、犯則所得の使途

犯則所得・各名義の帰属利益についてはそのまま再投資したり、借入金の返済や利息に充てたほかは預金口座にそのまま残しておいたものであり、これを他に費消したことは殆どない(六二四丁裏)。昭和六〇年度から同六三年度までの修正所得金額の合計七億六二六四万八二九二円(弁護人請求番号二一、二二、二三、別表参照)に対し、納付した税額合計は七億七一九八万七九〇〇円(前掲番号四、五、六、七、八、一四、九、一一、一三、一〇、一一「一五、一六」、「一七、一八」、「一九、二〇」、別表参照)であり、更に一審では罰金九〇〇〇万円となり、右所得金額を上廻ること九九三三万九六〇八円となっている。本件脱税のために得た利益を全部吐き出し、更に約一億円弱の財産的苦痛の制裁を与えられているものである。しかも売り残した株価は暴落してしまった。

八、本件発覚後の態度

被告人は家族名義、友人名義の各株式取引の際には全く被告人の株式取引と考えておらず、逋脱の意思を全く持っていなかったものであるが、専門職である税務担当者から家族の借入名義が被告人の筆跡であることから被告人の借入であり、それによる株式取引は、被告人の株式取引であると決め付けられ、それ以降は、脱税しました、だから当初から脱税の意図で家族名義を使ったといった前提に立って別に弁解するのでもなく、実直に供述してきているものであることは、本件記録全体の流れからも伺い知れるところである。男らしい潔い供述と言っても過言ではないと思われる(しかしそれだけに実刑という重刑を科せられて、言い足りなかった、理解してもらえなかっという心残りがしてならない)。そして脱税にかかわる税金もすべて完納している。発覚後の被告人の態度はまことに従順である。

九、社会的制裁・改悛の情

1、被告人は父親を早く亡くし、為に尋常高等小学校を中退して家業に専念し、逆境から身を起こして実直に商売をやり信用を得、それ相当の資産もでき、子供も教育し、更に社会に対しても種々寄付もし、それなりに社会的地位を得て、七〇才近く円熟の境遇にあったものである。

2、起訴され、今まで受けたことのない刑事裁判を受けることとなり、更に平成三年五月九日付産経新聞三面記事欄に中央下段三段にわたって、そして見出しは三段通しで記載され、テレビニュースにも流され、近所、知人に知れ渡り、お客からは店のものに、八百屋さんて儲かるのねー、すごいわねー、と冷やかされ、被告人自身も当分店に出られなく、店を手伝う家族もお客に顔を合わすのがイヤになってきたものである。

3、財産的制裁については、七項で既に述べた。

4、第一審における実刑判決は、被告人にとって正に青天の霹靂であった。甘かった。実直に供述し脱税にかかわるすべての税金を支払い、ひたすら謹慎していた被告人は勿論、家族も寛大な判決即ち執行猶予判決が下されることを願い、又そのように信じていた。第一審判決の言渡は、被告人にとって夢、うつつ、幻のようにさえ思われた。しかしいわゆる監獄に入る囚人となることに思いを致すとき、そして七〇才近くにして、リンパ腺が腫れたり、咽頭癌のおそれがあると言われ、摘出手術をなし、体調悪くして投獄の身となることを思うとき、幼い頃から家業に励み、自分なりにケジメをつけてキチッとした生活をし、狭い社会ではあるが、近隣では商売においても、家庭生活においても範を垂れる存在であったこと、そして生涯努力して築き上げたすべてのものが、中途半端な法的知識しかなかったために水泡に帰し、世間に対しても、親戚に対しても、身を置くところがなく、慚愧で心を平静にしようと思えば思うほど、心騒ぐ思いで一体自分の人生は何だったのかと、寂しい思いに襲われ、胸を締め付けられた。周囲の慰めの言葉も無力である。被告人は判決言渡し当日は、殆ど口をきくことができなかった。実刑であったのかと家族に聞かれて、うなづくのが精一杯であった。一番遅くまで親元で育った三女神園節子に話したのは、四月も終わり近くになってからであった。

5、被告人より一才年上である妻登女は、神経質な性格を持ち、胃炎から胃潰瘍を患い、更に数年前、胆嚢の手術をした後、体力が衰え(体重五〇数キログラムから三五キログラムとなる)、通院する日大病院近くの大谷口の家で被告人と一緒に生活している。重い物を持ったりすることができず、日常生活においても、被告人に頼りきった生活である。今まで実直に仕事をやってきた夫である被告人が実刑になって監獄に行くことが信じられないでいる。子供のために一生懸命日夜働いて別段取り立てての道楽というもののない被告人の趣味として株式をやっていたものであって、同人の名義で株式の売買をやっていることも知っていたが、このような問題になるとは夢にも思わなかった。家族名義を使うことが回数制限に違反するということを知っていたら、このようなことを絶対にさせなかったと悔やまれてならない。第一審判決言い渡し当日、家に帰って口をきかず、ションボリと胃が痛いと言って食事も喉を通らないという被告人から、やっと実刑判決一年四月ということを聞かされた。夜もよく眠れないようで時々うなされたり寝言を行ったり、ぼんやりしてウツラ、ウツラしているのを見て、自らも胸苦しく胃が痛くなっていた。

6、子供達も、年老いた病弱の両親が実刑判決によってションボリしているのを見ると、耐えられない気持となる。誰から言うともなしに被告人が刑務所にいるときに万一のことがあったら、或は母親に万一のことがあったら、と気遣っていることが、お互いにわかった。兄弟の思いは一つであった。年老いての精神的身体的環境の急変がもたらす結果が恐ろしいのである。一〇才頃から今日まで五〇余年遊びを知らず、家のため妻のため、子供のために青果商一筋に生き抜いて来た父、そして連れ添って来た母、この両親の実直な生活を見て来た子供達は、あまりにも惨めな両親の姿に目のやりどころがない。

7、被告人は、本件の重大性をイヤというほど知らされ、二度とこのような誤りを犯さないことを誓い家族も同様に被告人には株取引を一切やらないよう関心を持つこととし、更に裁判を機に被告人に生活の第一線から身を引いてもらい、年老いて判断力が鈍っているところから、二度と事件を起こすようなことをなくするため、働き続けてきた夫婦に老後の生活を楽しんでもらうため、隠居してもらって子供達で店の経営をやっていくことを話し合い、平成五年春にはその体制を完了すべく(銀行、取引先等についても被告人の引退を前提として話を進めている)準備を進めている。被告人も妻登女も快くこれを承諾している。

8、第一審判決後、被告人は財団法人法律扶助協会に、刑事贖罪寄付制度のあることを知り、罪を、金で、ということは?と一時躊躇を感じたが、社会全体に対する示談であると、説明され、できる限りの贖罪寄付をすることを思い立ち、その工面をすることに、落ち着かない気持ちをやっと落ち着かせる目標を見い出した。工面できた金額は七〇〇〇万円である。

9、妻登女及び子供達も被告人が家族名義を使って株式の取引を、やっていたことを漠然とではあるが、知っていたこと。回数制限についての法的な意味はよくわからなかったが、そして漠然と家族のためにやっているのだろう位に思っていたのではあるが、家族名義を使っていたことを漠然と知っていたこと自体に道義的責任があること。又多年にわたって実直に子供達のために働き、苦楽を共にしてきた夫であり、同じ血の流れる父親である被告人がこのような事態になったことについて道義的責任のあることを痛感し、それぞれ許す範囲で道義的な罪を償いたいという気持ちから、被告人ではないけれども、法律扶助協会に贖罪に準ずる寄付をすることとなったものである。その明細は、長男野口英一が二〇〇万円、二男野口英治が一五〇万円、長女中村ます江が一〇〇万円、次女村野美智子が一五〇万円、三女神園節子が八〇万円、妻野口登女が五〇〇万円で合計一一八〇万円である。

一〇、被告人も家族も第一審判決の実刑に事件が重大であることを知り、精一杯、ただ贖罪寄付に奔走してきた。精一杯やって実刑ならばいたしかたないと思っていたが、現実に原審で実刑の判決を言い渡されると愕然として言葉も出なかった。上告審で量刑が変わることは非常に難しいと聞いていたからである。実刑を言い渡し、背を向け法廷を去って行く裁判官に、何度も心の中でもう一度考えて下さい、もう一度真情を見極めて下さいと叫び祈ったことか。被告人としては、ここでつとめるべきか上告すべきか迷った。取り調べに不慣れの点、或いは裁判に不慣れな点もあって、今から考えると、言いたかったこと、どうしても言いにくかったこと等色々思い出されてくるが、せっかく上告の機会を与えられているので今一度思っていたこと或いは今まで述べてきたこと等を述べて御判断願いたいと考え、上告に及んだものである。

一一、結論

1、本件は回数制限違反を要素とするもので、行政犯的性格を有するものであり、暴力団と組したり、他の会社から多額の借入を受けて倒産させたり、仕手戦に参加したものではなく、全く一般庶民の単純な株式投資であり、量刑については、特別予防の点も十分に斟酌するを相当と思料されること。

2、従前から納税義務を果たしており、同種前科もなく、反社会的性格を見い出し得ないこと。

3、主として家族名義、友人名義を使っていること。家族名義の使用については、一般民事上も多々問題のあること。被告人は常識的に同人の取引に該当しないと考え、悪びれることもなく、せいか信用組合にもありのまま話していたこと。証券会社も家族名義の借入を知り、それが回数制限違反になり、刑事罰の対象となることを話した形跡のないこと。又せいか信用組合等も家族名義の貸付を本人に対する貸付と解しながら、又回数制限違反になることを知りながら、その旨話さず本人に対する貸付にしようとしなかったこと。これらの事情は被告人が回数制限違反とならないとの考え方を正当化することとなったこと。友人名義についても、いわゆる他人名義を利用するというのではなくして、友人同志で金を出し合って分配するもので所得の帰属は明確であったこと。以上のほかに架空名義、他人名義を使用しなかったこと等を思料すると、その動機において、又手段方法について酌量すべき点が多分にあること。

4、架空名義とか、預かり知らぬ第三者の名義を使うものでなく、又売上を誤魔化したりするものではなく、いわゆる罪証湮滅という事態のなかったこと。

5、税額逋脱率においては、問題が回数制限にあるだけにオール・オア・ナッシングの結果を生ずるものであったこと。被告人名義の株式取引による利益が殆どであり、被告人名義それ自体としては回数制限にかからないので、課税の対象とならなかったのであるが、殆ど利益のなかった家族、友人名義の株式取引が被告人の株式取引となったため、回数制限にかかることとなり、右利益が課税の対象となり、莫大な脱税という結果を生じたこと。したがって売上を誤魔化したり伝票を操作したりする悪性を懲表する税額逋脱率と同列に論じられないものであり、この点十分斟酌に値するものであること。

6、犯則所得についても、脱税にかかわる納付金により利益の金額を還元し、更に九九三三万九六〇八円を補充し、更に罰金、贖罪寄付をいれると約一億六九三三万九六〇八円の経済的制裁の結果となっていること。妻子を含めると一億八一一三万九六〇八円の経済制裁の結果となっていること。血の滲む金銭である。

7、本件発覚後は、そして担当者から説明された後は全く従順に供述し、脱税にかかわる税金はすべて完納していること。

8、社会的地位、名誉を得、老境に入り身体も衰えた頃に、本件により起訴され、マスコミに発表され経済的制裁を受け、実刑判決による打撃を受けたことは、実刑にも優る社会的制裁を受けたものであり、この点は一般予防としての側面を有するものである。家族も同様に社会的制裁を受けている言っても過言ではあるまい。

9、被告人も改悛の情顕著であり、今後は体制の整い次第、第一線から身を引くことにしており、家族もその体制を準備中であり、一方、同人は贖罪寄付もしており、家族も然りである。

10、被告人は昭和二四年に物価統制例違反の罰金三〇〇〇万円の前科があるのみで、それ以降全く前科はない。身体も丈夫ではなく、妻も同様であり、老齢である。心細い気持ちである。

11、被告人も家族も現在どん底にあり、悲嘆に胸を締め付けられている状況にある。

12、以上に加うるに既に詳述した被告人の逋脱の意思の実情及び同種事犯、特に一般庶民の単純な株式取引でない暴力団、仕手戦に参加した回数制限事犯に対比するときは、被告人の刑の量定が重きに失し、一般的予防、特別予防のバランスを失し、著しく正義に反し、破棄されるべきであると思料する。

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